3-2.頼まれていないことまでやった入社試験
(3-1から続く)
今ではそういうふうにキャンペーンとして展開していく人が普通になりましたけど、当時はほとんどそういう人はいなかった。もちろん、それが優れた解答だと言いたいわけではなくて、単純に積極的な姿勢で作っていると自由で楽しいし、見る人にも伝わるものだと思うんです。「攻めるデザイン」というのかな……。それは僕の、今も続くデザインの基本姿勢のように思っています。その時にもう考えていたんですね。審査員も「うまいデザイン作品」を求めているんじゃない、一緒に働きたい「可能性のあるデザイナー」、まさに人を求めてるはずだって。それは何年か経って審査員をやったときもそう考えてました。「やっぱりそうだったな」って。だって、後の僕のチームにはいった岡本和樹、長嶋りかこ、小杉幸一、榮良太、服部公太郎、原野賢太郎もみんな試験の時はそんなに上手いわけではなかった。けど、当時から生意気そうだったり、意思が強そうだったり、やはりキラリと光る魅力がありました。
課題から派生したことまで楽しんでやって、これならまあ、入社試験には落ちたら落ちたでいいかと思っていたら、受かったんです。嬉しかったしビックリした。プレゼンテーションの時、Tシャツをリクルートシャツの下に着ていって突然脱いでプレゼンしたので、もっと爆笑されるかと思ったら、全然ウケなかったんですよね……。後で聞いたら、皆が生真面目な顔をしているときにも、動じないでプレゼンができるかどうかを、見ていたらしいんですけど。あと作品の数がすごく多かったのでマシンガントークでプレゼンしたのでちょっと引かれてしまったのかもしれないですねえ(笑)。あと「第2の大貫卓也じゃなくて第1の佐野研二郎になりたい」とか面接で言ったのをよく覚えてます。
その時デザイナーとして一緒に入社したのが萩原ゆかさん(現シンガタ)と後にQooやでこぼこフレンズをデザインする丸山もも子さん(現博報堂クリエイティブヴォックス)たち6人。当時からやはり自分には全くない才能を持った同期がさすがにたくさんいて、「こりゃ〜、大変だぞ」と逆にワクワクしたんです。それがデザイナー佐野研二郎のスタートなんです。
今ではそういうふうにキャンペーンとして展開していく人が普通になりましたけど、当時はほとんどそういう人はいなかった。もちろん、それが優れた解答だと言いたいわけではなくて、単純に積極的な姿勢で作っていると自由で楽しいし、見る人にも伝わるものだと思うんです。「攻めるデザイン」というのかな……。それは僕の、今も続くデザインの基本姿勢のように思っています。その時にもう考えていたんですね。審査員も「うまいデザイン作品」を求めているんじゃない、一緒に働きたい「可能性のあるデザイナー」、まさに人を求めてるはずだって。それは何年か経って審査員をやったときもそう考えてました。「やっぱりそうだったな」って。だって、後の僕のチームにはいった岡本和樹、長嶋りかこ、小杉幸一、榮良太、服部公太郎、原野賢太郎もみんな試験の時はそんなに上手いわけではなかった。けど、当時から生意気そうだったり、意思が強そうだったり、やはりキラリと光る魅力がありました。
課題から派生したことまで楽しんでやって、これならまあ、入社試験には落ちたら落ちたでいいかと思っていたら、受かったんです。嬉しかったしビックリした。プレゼンテーションの時、Tシャツをリクルートシャツの下に着ていって突然脱いでプレゼンしたので、もっと爆笑されるかと思ったら、全然ウケなかったんですよね……。後で聞いたら、皆が生真面目な顔をしているときにも、動じないでプレゼンができるかどうかを、見ていたらしいんですけど。あと作品の数がすごく多かったのでマシンガントークでプレゼンしたのでちょっと引かれてしまったのかもしれないですねえ(笑)。あと「第2の大貫卓也じゃなくて第1の佐野研二郎になりたい」とか面接で言ったのをよく覚えてます。
その時デザイナーとして一緒に入社したのが萩原ゆかさん(現シンガタ)と後にQooやでこぼこフレンズをデザインする丸山もも子さん(現博報堂クリエイティブヴォックス)たち6人。当時からやはり自分には全くない才能を持った同期がさすがにたくさんいて、「こりゃ〜、大変だぞ」と逆にワクワクしたんです。それがデザイナー佐野研二郎のスタートなんです。
3-1.頼まれていないことまでやった入社試験
博報堂への入社試験は、「東京タワーのポスターを作る」というものでした。課題の作品と過去に制作した作品を5分程度でプレゼンするんです。時間も短いから強い印象をつけるものにしないといけないと思ったんだけど、試験だという焦りもあって、なかなかこれだ!というものが思いつかない。
それでまず、実際に東京タワーに行ってみた。見た目にはあれだけ慣れ親しんだ存在に関わらず、意識的に東京タワーへ行ったのはそれが初めてだったんですが、あまりにダサくて驚いた(笑)。タワーグッズのクオリティーはもちろんのこと、蝋人形館があったり、展望台でなぜか沖縄のサンダーアーダギーが売っていたり……。「なぜだ?!」がいっぱい。
東京の真ん中に、取り残されたように、全く東京っぽくなくて、全く格好よくない面白い場所がある、というのが衝撃で。他の受験生はかっこいいグラフィックをつくるだろうけど、僕はこのダサさから絶対に逃げてはならないし、これを東京タワーの魅力として捉えて伝えよう、グッズも含めて展開してみようと考えたんですね。
さらに当時、都知事は青島幸男さん。大阪府知事が横山ノックさんだったんです。しかも都市博をやるのやらないの、ともめているしている時期で。そんな社会背景があるのにあえて、ポスターは、『エンジョイ東京タワー』というあっけらかんとしたキャンペーンコピーにして、タワーの横にイラストの青島さんがいて、端っこで横山ノックが「おのれー」って言ってるという(笑)、あえてちょっとキッチュな感じにデザインしたんです。タイポグラフィもモンセン書体集から Bank Gothic をコピーして、カッティングシートでパネルにペタっと貼って撮影しました。好きな書体も今とあまり変わってないですね。

シンプルに、東京の人にも興味をもって来てもらうためのキャンペーンにしようと思ったんです。だって、絶対他の人はもっとイメージっぽいものや、東京タワーのフォルムでグラフィックデザインしてくると思ったし、「ここは勝負だ、絶対目立つから、あとはきちんと仕上げよう」と2、3日でバババっとつくったんです。親友の田村篤くん(現スタジオジブリ・原画アニメーター)にも手伝ってもらって。調布の写真ラボへの運転から切り貼りから、ビール数本のギャラでやってくれました。いつだって持つべきものは優秀な仲間です。モノをつくることは一人では不安だし、理解者がいないとできないものです。田村くんにはいまだに感謝してます。
さらに、横山ノック大阪知事がプリントされた「ノックダウン」と描いたTシャツやブリーフまで作ったんです。意地悪ばあさんに扮した青島さんにTシャツとか。あと、お店で焼きそばの紅ショウガを店員が東京タワーの形にしてくれる、ホットドッグのケチャップを店員が東京タワーの形にしてくれる、という店舗でのサービスも考えて、その雑誌広告はもちろん、実物まで持っていきました。つまり、ポスターの課題なのにグッズを含めて結果的にすごい量になったわけです。
(3-2へ続く)
それでまず、実際に東京タワーに行ってみた。見た目にはあれだけ慣れ親しんだ存在に関わらず、意識的に東京タワーへ行ったのはそれが初めてだったんですが、あまりにダサくて驚いた(笑)。タワーグッズのクオリティーはもちろんのこと、蝋人形館があったり、展望台でなぜか沖縄のサンダーアーダギーが売っていたり……。「なぜだ?!」がいっぱい。
東京の真ん中に、取り残されたように、全く東京っぽくなくて、全く格好よくない面白い場所がある、というのが衝撃で。他の受験生はかっこいいグラフィックをつくるだろうけど、僕はこのダサさから絶対に逃げてはならないし、これを東京タワーの魅力として捉えて伝えよう、グッズも含めて展開してみようと考えたんですね。
さらに当時、都知事は青島幸男さん。大阪府知事が横山ノックさんだったんです。しかも都市博をやるのやらないの、ともめているしている時期で。そんな社会背景があるのにあえて、ポスターは、『エンジョイ東京タワー』というあっけらかんとしたキャンペーンコピーにして、タワーの横にイラストの青島さんがいて、端っこで横山ノックが「おのれー」って言ってるという(笑)、あえてちょっとキッチュな感じにデザインしたんです。タイポグラフィもモンセン書体集から Bank Gothic をコピーして、カッティングシートでパネルにペタっと貼って撮影しました。好きな書体も今とあまり変わってないですね。

シンプルに、東京の人にも興味をもって来てもらうためのキャンペーンにしようと思ったんです。だって、絶対他の人はもっとイメージっぽいものや、東京タワーのフォルムでグラフィックデザインしてくると思ったし、「ここは勝負だ、絶対目立つから、あとはきちんと仕上げよう」と2、3日でバババっとつくったんです。親友の田村篤くん(現スタジオジブリ・原画アニメーター)にも手伝ってもらって。調布の写真ラボへの運転から切り貼りから、ビール数本のギャラでやってくれました。いつだって持つべきものは優秀な仲間です。モノをつくることは一人では不安だし、理解者がいないとできないものです。田村くんにはいまだに感謝してます。
さらに、横山ノック大阪知事がプリントされた「ノックダウン」と描いたTシャツやブリーフまで作ったんです。意地悪ばあさんに扮した青島さんにTシャツとか。あと、お店で焼きそばの紅ショウガを店員が東京タワーの形にしてくれる、ホットドッグのケチャップを店員が東京タワーの形にしてくれる、という店舗でのサービスも考えて、その雑誌広告はもちろん、実物まで持っていきました。つまり、ポスターの課題なのにグッズを含めて結果的にすごい量になったわけです。
(3-2へ続く)
2-2.僕がアートディレクターになるまで
(2-1から続く)
あとガーディアン・ガーデンのひとつぼ展(現在の1_WALL展)に出品してアートディレクターの浅葉克巳さんや青葉益輝さんに作品を見ていただきました。展示で知り合った方は学校以外の方も多く、とても刺激になりましたね。多摩美は八王子の鑓水という山の中だったので、都会に行かないとダメになると息巻いていたんですね。
また、パルコが榎本了壱さんプロデュースで開催していた「アーバナート展」にも出品しつつ、審査のアルバイトもしていました。自分のは余裕で落選なんですけどね。でも、アルバイトの目的は審査員だった粟津潔さんや日比野克彦さんやタナカノリユキさんを見たかったから。
勝手にプチ自慢なんですが、パルコ賞を受賞した長島有里枝さんの家族のヌードの作品は僕が持たされていたんです。衝撃的な作品でフライデーに載るくらい話題になった作品でしたが、実は最初は賞候補に入っていなかったんです。審査員の荒木経惟さんが「もっといいのないかな〜」と入選作の山の中からすごい早さで見つけてきて突然、僕に「お前、持て!」と言って他の審査の方に「これしかない!」「この女は悪い女だ!」と熱くプレゼンしてめでたくパルコ賞に決まったんです。やはり審査をする人は説得力と見る目があるなあ、さすが!と思いました。
あと、当時大切にしていたのは、観客でなくてプレイヤーだといつも考えることですね。映画でも本でも学生の頃にいろいろなものを見るのは重要だと思いますが、傍観せずに自分の作品に生かせないかということを常に忘れちゃいけないと思うんですね。映画評論家が映画監督になれないように、観客とプレイヤーは少し見方が違うと思うんです。僕は下手でもいいからプレイヤーになりたかった。実際コンペにたくさん出品していても入選は3回くらい。3勝50敗、野球選手だったらクビですけどね。
でも、参加するのとしないのでは全く違う。落選すると、くやしいからグランプリや賞をとったものと自分のものを比較してその差を考えるようになる。けど参加していないと「ふ〜ん、俺はあまり好きじゃないけどね」と好みの感想を言って終わる。落選はホントは嫌だけど、そこから学ぶことは大きいんです。なまじ入選しないほうがいいのかもしれない。僕はそういうコンペに育ててもらったと今でも思っているんです。
僕は学校ではいわゆる優等生ではなかったですね。ただ、学校には毎日2時間弱かけて行ってました。授業もほぼ出てたし、課題もさぼらず真剣にやってましたが、教授に褒められることはそんなになかったですね。いまでも覚えてるのはイラストの授業で画材や大きさが自由という課題があったのでマヨネーズとケチャップとソースでその担当の講師が裸で縛られてるイラストをコンパネ9枚をくっつけて描いて上の窓から見てくれ!などとやってましたから。でもそれはみんなを笑わせようとしてやったんですけどね。
3年生になったある日、中島祥文教授の授業でラフスケッチの段階で結構厳しく言われたことがありました。奮起して頑張りましたが、結局完成したものは自分ではあまり満足できなかったんだけど、中島さんから「仕上がりは甘いが、やっと広告を理解した」と褒められた。大学の授業で怒られることって、ほとんどないじゃないですか。だから最初はビックリしたけど、あの日はじめてやる気になれたのかもしれない。ずいぶん徹夜してつくりました。後に博報堂に内定もらった時、中島教授に報告に行ったら「やっぱり君が入ったね」だって。嬉しかったなあ。
あとガーディアン・ガーデンのひとつぼ展(現在の1_WALL展)に出品してアートディレクターの浅葉克巳さんや青葉益輝さんに作品を見ていただきました。展示で知り合った方は学校以外の方も多く、とても刺激になりましたね。多摩美は八王子の鑓水という山の中だったので、都会に行かないとダメになると息巻いていたんですね。
また、パルコが榎本了壱さんプロデュースで開催していた「アーバナート展」にも出品しつつ、審査のアルバイトもしていました。自分のは余裕で落選なんですけどね。でも、アルバイトの目的は審査員だった粟津潔さんや日比野克彦さんやタナカノリユキさんを見たかったから。
勝手にプチ自慢なんですが、パルコ賞を受賞した長島有里枝さんの家族のヌードの作品は僕が持たされていたんです。衝撃的な作品でフライデーに載るくらい話題になった作品でしたが、実は最初は賞候補に入っていなかったんです。審査員の荒木経惟さんが「もっといいのないかな〜」と入選作の山の中からすごい早さで見つけてきて突然、僕に「お前、持て!」と言って他の審査の方に「これしかない!」「この女は悪い女だ!」と熱くプレゼンしてめでたくパルコ賞に決まったんです。やはり審査をする人は説得力と見る目があるなあ、さすが!と思いました。
あと、当時大切にしていたのは、観客でなくてプレイヤーだといつも考えることですね。映画でも本でも学生の頃にいろいろなものを見るのは重要だと思いますが、傍観せずに自分の作品に生かせないかということを常に忘れちゃいけないと思うんですね。映画評論家が映画監督になれないように、観客とプレイヤーは少し見方が違うと思うんです。僕は下手でもいいからプレイヤーになりたかった。実際コンペにたくさん出品していても入選は3回くらい。3勝50敗、野球選手だったらクビですけどね。
でも、参加するのとしないのでは全く違う。落選すると、くやしいからグランプリや賞をとったものと自分のものを比較してその差を考えるようになる。けど参加していないと「ふ〜ん、俺はあまり好きじゃないけどね」と好みの感想を言って終わる。落選はホントは嫌だけど、そこから学ぶことは大きいんです。なまじ入選しないほうがいいのかもしれない。僕はそういうコンペに育ててもらったと今でも思っているんです。
僕は学校ではいわゆる優等生ではなかったですね。ただ、学校には毎日2時間弱かけて行ってました。授業もほぼ出てたし、課題もさぼらず真剣にやってましたが、教授に褒められることはそんなになかったですね。いまでも覚えてるのはイラストの授業で画材や大きさが自由という課題があったのでマヨネーズとケチャップとソースでその担当の講師が裸で縛られてるイラストをコンパネ9枚をくっつけて描いて上の窓から見てくれ!などとやってましたから。でもそれはみんなを笑わせようとしてやったんですけどね。
3年生になったある日、中島祥文教授の授業でラフスケッチの段階で結構厳しく言われたことがありました。奮起して頑張りましたが、結局完成したものは自分ではあまり満足できなかったんだけど、中島さんから「仕上がりは甘いが、やっと広告を理解した」と褒められた。大学の授業で怒られることって、ほとんどないじゃないですか。だから最初はビックリしたけど、あの日はじめてやる気になれたのかもしれない。ずいぶん徹夜してつくりました。後に博報堂に内定もらった時、中島教授に報告に行ったら「やっぱり君が入ったね」だって。嬉しかったなあ。
2-1.僕がアートディレクターになるまで。
僕がアートディレクターになろうと決めたのは、大学に通っていた頃。大学は多摩美のグラフィックデザイン科だったんですが、最初は「イラストレーターのような人になりたい」という漠然とした気持ちしかなかったんです。
ところが、大学1年生の芸術祭で、当時まだ博報堂にいた大貫卓也さんの講演を聞いて、「もうこれしかない!」と思い込んじゃった。動機はとても単純。いろいろな企業のポスターもCMもつくれて、サビニャックやハーブ・リッツにも会えて、自分でもイラストを描いて...なんて自由で楽しそうなんだ、飽きっぽい自分には刺激も多そうで、うん、これは天職かも、と勝手に確信してました。
とはいえ、僕は一番子どもの多い1972年生まれ。時はバブルが崩壊して、企業も就職を控え始めた頃です。しかもアートディレクターになりたいって言っていたって、そうすぐになれるわけではないだろうし、どういう風に過ごしていけばいいのか、というのは学生時代、よく考えていました。
目標があって、それをどういう風にたぐり寄せていけばいいのかを考えるのは、実はすでにデザインなんですよね。無数にある商品の中から選んでもらうために、アートディレクターは広告や商品をデザインするのと一緒。就職だけの話ではなくて、商品=自分と考えれば分かりやすい。
大学の4年は密度はありますがとても短いんです。そこで何をするか、で全然違う人になっちゃうくらい重要な時期だったと今でも思います。目的を大貫さんのようなアートディレクターだと設定したなら、やはり単純に博報堂に入ればいいんじゃないか、じゃあ、それにはどうすればいいのか?と考えたんです。ただ、まだ1年生でしたから、まだ基礎段階で広告デザインの授業はないし、『大貫卓也全仕事』やADC年鑑を見るくらいしかできない。知識も技術もなかったので。
それで僕は、イラストレーションのコンペに応募したり、ネットワークを広げたりといったことを、自分からやるようにしました。親に勉強しろって言われてする勉強は何も身につかないのと一緒で、興味を持って自分からやるのでなければ、自分の力にはならないと思ったんです。
クリエーションギャラリーG8やギンザ・グラフィック・ギャラリーにはよく行きましたね。G8の展覧会にあわせて開催されるトークイベント「クリエイティブサロン」にもほぼ行っていて、よく学校でクリエイティブサロンごっこを友人としてました。偉そうにデザイン論を語るんですよ。でも、自分なりに考えをまとめて話すのは難しかった。言葉にするのは難しいなあ、プロはやっぱりすごいと思っていました。デザイナーはきちんと自分の考えを言語化できないと何も提案できないし、説得力のあるものはできないなあ、と。
(2-2へ続く)
ところが、大学1年生の芸術祭で、当時まだ博報堂にいた大貫卓也さんの講演を聞いて、「もうこれしかない!」と思い込んじゃった。動機はとても単純。いろいろな企業のポスターもCMもつくれて、サビニャックやハーブ・リッツにも会えて、自分でもイラストを描いて...なんて自由で楽しそうなんだ、飽きっぽい自分には刺激も多そうで、うん、これは天職かも、と勝手に確信してました。
とはいえ、僕は一番子どもの多い1972年生まれ。時はバブルが崩壊して、企業も就職を控え始めた頃です。しかもアートディレクターになりたいって言っていたって、そうすぐになれるわけではないだろうし、どういう風に過ごしていけばいいのか、というのは学生時代、よく考えていました。
目標があって、それをどういう風にたぐり寄せていけばいいのかを考えるのは、実はすでにデザインなんですよね。無数にある商品の中から選んでもらうために、アートディレクターは広告や商品をデザインするのと一緒。就職だけの話ではなくて、商品=自分と考えれば分かりやすい。
大学の4年は密度はありますがとても短いんです。そこで何をするか、で全然違う人になっちゃうくらい重要な時期だったと今でも思います。目的を大貫さんのようなアートディレクターだと設定したなら、やはり単純に博報堂に入ればいいんじゃないか、じゃあ、それにはどうすればいいのか?と考えたんです。ただ、まだ1年生でしたから、まだ基礎段階で広告デザインの授業はないし、『大貫卓也全仕事』やADC年鑑を見るくらいしかできない。知識も技術もなかったので。
それで僕は、イラストレーションのコンペに応募したり、ネットワークを広げたりといったことを、自分からやるようにしました。親に勉強しろって言われてする勉強は何も身につかないのと一緒で、興味を持って自分からやるのでなければ、自分の力にはならないと思ったんです。
クリエーションギャラリーG8やギンザ・グラフィック・ギャラリーにはよく行きましたね。G8の展覧会にあわせて開催されるトークイベント「クリエイティブサロン」にもほぼ行っていて、よく学校でクリエイティブサロンごっこを友人としてました。偉そうにデザイン論を語るんですよ。でも、自分なりに考えをまとめて話すのは難しかった。言葉にするのは難しいなあ、プロはやっぱりすごいと思っていました。デザイナーはきちんと自分の考えを言語化できないと何も提案できないし、説得力のあるものはできないなあ、と。
(2-2へ続く)
1. デザインは飲食店のようなもの。
僕の家のそばに、小さなお寿司屋さんがあります。
とても狭くて、8人も入ればいっぱい。いつもニコニコしたちょっと太めの主が迎えてくれます。味も接客も素晴らしい、いい店なんですよ。聞けば、元はずいぶん大きなお寿司屋さんで働いていたそうなんです。それが、不特定多数のお客さんを相手に大儲けするんじゃなくて、自分の味を目当てにして来てくれる人の顔を見ながらお店をやっていきたいと考えて、独立した、と。だからお店はミニマムでいい、弟子も一人でいい。と。そういう雰囲気につられて何度となく足を運んでいます。
それからこういう店もある。けっこう有名な焼き肉屋さんで、味は最高。内装はどこか沖縄料理屋みたいな雰囲気の漂う、ちょっと不思議な感じなんだけど、予約の仕方が変わっていて、店に日めくりカレンダーがあるんです。そこに自分で予約の日時と人数を書いていく。見てみるとずっと先まで埋まっていて、よしまた来よう、って思えてしまう。
逆にこんなこともありました。ミシュランで三ツ星をとった、予約がとれないことで有名な某レストラン。試しに行ってみようと電話をしてみたら、本当に電話がつながらない。予約時間帯のいつかけてもずっと話し中なわけです。たまたま移動中に思い立ってかけてみたら突然つながって、でも予約できるのは2ヶ月とか先。それでもまあいいや、と行ってみた。ところが料理は猛烈に高く、何を食べているのかよく分からず……。それは僕の味覚のせいだとしても、ふと見たら、受話器を外しているんです。つまり、自分たちの店は混んでいるということを演出するため、ブランディングのために外してるんですね。僕はそれはかなり興ざめで。
ある店に「また来よう」となるか「もういいや」となるかは難しいところで、バランスが少しずれていると嫌になってしまいます。値段とサービス、内容、店の空気とかまでもが一致していないといけない。それからおそらく、看板ひとつにまでそれは現れてくるでしょう。
僕が思うのは、デザインってそういうことじゃないかな、ってこと。アートディレクターの仕事って、僕が駆け出しだった15年ほど前とはずいぶん変わって、ものすごく広い分野にまたがるようになってきました。
当時は、大きな広告代理店だと特に、制作局があって、プロモーション局があってとバラバラ。CMや広告はCMプランナーがいて、グッズみたいなものには違う部署に担当者がいて、パッケージもまた別の部署の別の人間がつくる……って、分業体制だったんです。それが今では、アートディレクターが全体の流れを統括してトーンを揃えていくことが主流になってきた。
そうだとするなら、アートディレクターはあるレストランをつくるように、つまり来てほしいお客さんにまた来てもらえるように、全体のデザインを考えていかなくてはならない。この連載の中では、僕自身の考えるアートディレクターの役割、考え方のヒントや仕事の進め方をお話ししたいと思います。
(まとめ・文=阿久根佐和子)
とても狭くて、8人も入ればいっぱい。いつもニコニコしたちょっと太めの主が迎えてくれます。味も接客も素晴らしい、いい店なんですよ。聞けば、元はずいぶん大きなお寿司屋さんで働いていたそうなんです。それが、不特定多数のお客さんを相手に大儲けするんじゃなくて、自分の味を目当てにして来てくれる人の顔を見ながらお店をやっていきたいと考えて、独立した、と。だからお店はミニマムでいい、弟子も一人でいい。と。そういう雰囲気につられて何度となく足を運んでいます。
それからこういう店もある。けっこう有名な焼き肉屋さんで、味は最高。内装はどこか沖縄料理屋みたいな雰囲気の漂う、ちょっと不思議な感じなんだけど、予約の仕方が変わっていて、店に日めくりカレンダーがあるんです。そこに自分で予約の日時と人数を書いていく。見てみるとずっと先まで埋まっていて、よしまた来よう、って思えてしまう。
逆にこんなこともありました。ミシュランで三ツ星をとった、予約がとれないことで有名な某レストラン。試しに行ってみようと電話をしてみたら、本当に電話がつながらない。予約時間帯のいつかけてもずっと話し中なわけです。たまたま移動中に思い立ってかけてみたら突然つながって、でも予約できるのは2ヶ月とか先。それでもまあいいや、と行ってみた。ところが料理は猛烈に高く、何を食べているのかよく分からず……。それは僕の味覚のせいだとしても、ふと見たら、受話器を外しているんです。つまり、自分たちの店は混んでいるということを演出するため、ブランディングのために外してるんですね。僕はそれはかなり興ざめで。
ある店に「また来よう」となるか「もういいや」となるかは難しいところで、バランスが少しずれていると嫌になってしまいます。値段とサービス、内容、店の空気とかまでもが一致していないといけない。それからおそらく、看板ひとつにまでそれは現れてくるでしょう。
僕が思うのは、デザインってそういうことじゃないかな、ってこと。アートディレクターの仕事って、僕が駆け出しだった15年ほど前とはずいぶん変わって、ものすごく広い分野にまたがるようになってきました。
当時は、大きな広告代理店だと特に、制作局があって、プロモーション局があってとバラバラ。CMや広告はCMプランナーがいて、グッズみたいなものには違う部署に担当者がいて、パッケージもまた別の部署の別の人間がつくる……って、分業体制だったんです。それが今では、アートディレクターが全体の流れを統括してトーンを揃えていくことが主流になってきた。
そうだとするなら、アートディレクターはあるレストランをつくるように、つまり来てほしいお客さんにまた来てもらえるように、全体のデザインを考えていかなくてはならない。この連載の中では、僕自身の考えるアートディレクターの役割、考え方のヒントや仕事の進め方をお話ししたいと思います。
(まとめ・文=阿久根佐和子)
プロフィール
Author:佐野研二郎
美術出版社公式サイト「ABCD channel」(http://abcd-ch.jp)の連載記事。アートディレクター佐野研二郎氏にデザイン術、仕事術について取材した内容を掲載していきます。お楽しみに。

